*この記事はネタバレがあります。
こんにちは。トラコです。今日の映画は「是枝裕和の怪物(2023)」です
日本の人と話すと「普通に」という言葉をよく聞きます。~じゃないの?普通にって
簡単に共感を得られる便利な言い方だと思います。母国でもよく言われるから別に悪い表現であるとは思いません。
しかしどこからどこまでが「普通」なのかを決めることはかなり暴力的だと思います。なぜなら相手を自分が設定した「領域」に入れるかどうか試みることだからです。
映画は一つの3つの視点から見せています。
変わっていく視点のカオスで私たちは怪物を探します。誰が怪物なのか?まるで、犯罪を探していく探偵物みたいに。
しかし最後まで見ると私たちの考えとは全く異なっているのを分かります。今回は真相が明らかになるまでを簡単に確認して様々な定義とその意味を考えてみます。母の視点を#1で最後を#3で書きます。
内容確認が必要ない方は#3から読んでも良いです。
#1
最初に母の視点である#1です。私たちはどうして湊が変な行動をしているのかについて考えながら映画を観ます。先生からなぐられたのか、 同級生のイジメなのかと。意欲がない校長先生の態度から校長先生の噂を思い出すこともあります。
先生かガールズバーから出てきたという噂から不真面目な先生だと思って、湊をイジメている又はいじめを隠蔽していると疑う時もあります。
特に豚の脳の話が主要でした。先生が「脳が変わったら人格も変わるのか」と、自分に質問したと母に伝えるから、やはり問題がある先生だと確信していきます。
どんどんきつい態度になる母を見て過干渉かもしれない疑問も生まれますね。そしてここから湊も疑います。先生から湊がヨリをイジメしていると言われますから。
だれが怪物なのかははっきりしなくて#1は終わります。
#2
今回は容疑者だった先生の視点で状況を見せていきます。
先生の噂の真相はただ先生の恋人が派手な女だけでした。また、先生が傷つけたこともわざとではなかった。 一連の事情から、湊が怪物である可能性どんどん上がります。
その一方で失われた家族の写真がよく見えるように置いていることから、校長先生の噂が深まっていきます。
この事件を早く終わらせようとしている学校
又は私的制裁している日本社会が怪物かもしれない…と考えるかもしれません。
余談ですが一連の流れはとても厳しくて、現場で働いている方は観ることがきついかもしれませんね。
#2の最後に先生はなにを気づいて湊を探したのか。
湊の真実はなんだろかが現れると期待して#3に入ります。
#3
今回は湊の視点から見せているから、湊をどう弁護するのか期待しました。
実は湊とヨリが友達だったのを分かって、各関係者の「事情」を考え、はがゆい状況だったと思うかもしれません。
ここで終わったら「こんな残酷な状態になられた、私たち(社会の成員)が問題だ」という、つまらない日本映画になったと思います。自分の考えなんですが特に日本のドラマとアニメでこのメッセージを含めているのが多いと思います。これについては後で議会があったら。
しかし、映画の内容は最後の最後で急に変わっていきます。ヨリの告白からです。
ヨリは女性的だと言われ、いじめられます。おそらくヨリは性自認が女性だと考えている(女性だとは言いません)のが現しました。
ここから前の湊のセリフ、そして後の湊とヨリの会話から「変な行動」と「変なシルシ」だと思ったのを観客は繰り返します。
- 怪物はだ~れ?⇒湊とヨリの遊び
- 湊が出たトイレから閉じ込められたヨリを先生が発見⇒学校では仲良くしない方がいいとお互いに約束したから。周辺を確認した時先生を見つけただけ。
- 湊がずっと消しゴムを拾おうしたこと⇒偶然
- 湊が猫を殺した⇒猫の死体を埋めただけ。
実際、木田(報告した女の子)は猫を殺したと言わなかった。 - 水筒に土がたくさんあったこと⇒いじめられたことではなく、火消しの間に
- 湊が自分の脳は豚の脳だと言ったこと⇒僕もヨリと同じだと言うこと
- 湊の争い⇒イジメを止めるため
- 湊が髪を切ったこと⇒ヨリに対する感情を認めなかったからヨリの手が触ったところを切り取った。
- 湊が急に走っている車からでたこと⇒「僕はお父さんみたいになれない」と言ったことを母が理解できなくて。女性と結婚して家族を作っていけないの意味
などなどです。
結局怪物は誰だったのか。イジメした子供たち?それとも虐待したヨリのお父さん?
そうかもしれませんが二人を苦しめたのは「人」より「言葉」でした。
普通とらしい
先生の口癖は「男らしく」です。湊の母の口癖は「普通の人生でいい」です。
確かに男性からよく見られる特徴はあります。男性ホルモンと女性ホルモンは差があるから。社会の多数派に属する家族構成もありますね。
そう言っても、多さを言葉につながるのは別の問題です。
例えば、人間の歴史は戦争から始まって、どう勝つのかを研究しながら発展しました。今もロシアとウクライナが戦争しています。
では人間らしいのは戦争するのでしょうか。
同意する人も「同意しない人も多くいる」には反対しないと思います。
つまり、「人間らしい」という言葉は正確にいうと「(私が考える)人間らしいのは」になります。当然なら当然ですが時々これを忘れてしまいますね。私も
定義という暴力
哲学で定義というのは何か。
自分の人生の中で学んだこと、経験したことを一つの言葉に集めることである。科学のあれとは異なります。
今から「男らしく」と「普通の人生でいい」というセリフを変えてみます。
「握手して、男らしく」⇒「先生は君たちが握手して仲直りしてほしい」
「普通の人生でいい」⇒「私は湊が好きな女性と結婚して幸せになったら」
この言い方をしたら相手は「なぜですか」という質問ができます。
何が違って、前文には質問できないのかを分からない方のため、前についても質問してみます
「握手して、男らしく」―「なぜですか?」―「それが男だから」
「普通の人生でいい」―「男性が好きなのはだめですか?」―「だめだよ普通じゃないよ」
なぜこうになるのかは簡単です。相手の行動・状況・感情などをもう既に一つの単語に入れたからです。
これについて質問したら「なぜ私はそうする必要がありますか」ではなく「私はあなたの考えが間違えたと思います」になります。
ですので、質問しにくいです。
それもお互いに力の差があるから…もっと難しいですね。
すべては「ただそこにあっただけ」
定義するのは別に悪いことではありません。
ていうか、当然なことです。
脳は自分の経験から理解できないのが残るとすごく不便を感じるから。
定義した言葉はもう既に自分の考えが含まれていますが
私たちは(もちろん私も)言葉自体が自分の主観であることを忘れて、言っちゃいますね。
「友達だから」
「親だから」
「恋人だから」…
セリフでの「ビッククランチ」は宇宙が崩壊してゼロに戻すという意味です。
宇宙の誕生についてある人は「神様が作った」と、科学は「最初に美しい花火があった」と主張します。正解は分かりませんがただ一つ言えるのは人間が生まれる前から、宇宙はただそこにあっただけです。
このように我々が経験する物・状況・感情・考えなどは理由もなく、ただそこにあっただけかもしれません。(もちろんそれを説明するのが科学の仕事ですので)
湊とヨリの関係が恋なのか
湊はゲイなのかは分かりません。
でも二人は遊んで、抱きしめて、最後は家から一緒に逃げました。
それは事実。これに理由を考えたのは母とヨリのお父さん、先生です。
子供たちと大人違いが表れたセリフが「豚の脳」です。
お前がそんな行動をするのは精神を豚が支配するからだと。ヨリの父は行動・感情の理由をつくりました。
今回は湊のセリフを覚えてみます。
「豚の脳を移植した人間は人間か豚か」
ヨリのお父さんは, 豚の精神を持っているからそうするんだと言います。女子的だと言われるヨリの行動に理由を探しています。
ヨリは父から離れたので、自分を人間だと考えています。行為の理由を精神から探していません。
だったらヨリと湊は「豚の脳を移植した人間は人間か豚か」について人間だと言って、ヨリのお父さん・湊のお母さん・保利先生は豚といいますね。
では豚は誰かな
この映画が話したいのはよく使っている言葉にも棘があること。
これに加えて私は
相手の感情・行為・言葉をそのままで受け入れられる世界が欲しいんじゃないか
監督の考えを推測してみます。
以上