Torako

感想文で日本語勉強中…

定義という暴力~「怪物」考察~

*この記事はネタバレがあります。

 こんにちは。トラコです。今日の映画は「是枝裕和の怪物(2023)」です

(C)2023「怪物」製作委員会

 日本の人と話すと「普通に」という言葉をよく聞きます。~じゃないの?普通にって

 簡単に共感を得られる便利な言い方だと思います。母国でもよく言われるから別に悪い表現であるとは思いません。

 しかしどこからどこまでが「普通」なのかを決めることはかなり暴力的だと思います。なぜなら相手を自分が設定した「領域」に入れるかどうか試みることだからです。

 映画は一つの3つの視点から見せています。

 変わっていく視点のカオスで私たちは怪物を探します。誰が怪物なのか?まるで、犯罪を探していく探偵物みたいに。

 しかし最後まで見ると私たちの考えとは全く異なっているのを分かります。今回は真相が明らかになるまでを簡単に確認して様々な定義とその意味を考えてみます。母の視点を#1で最後を#3で書きます。

 内容確認が必要ない方は#3から読んでも良いです。

#1

 最初に母の視点である#1です。私たちはどうして湊が変な行動をしているのかについて考えながら映画を観ます。先生からなぐられたのか、 同級生のイジメなのかと。意欲がない校長先生の態度から校長先生の噂を思い出すこともあります。

 先生かガールズバーから出てきたという噂から不真面目な先生だと思って、湊をイジメている又はいじめを隠蔽していると疑う時もあります。

 特に豚の脳の話が主要でした。先生が「脳が変わったら人格も変わるのか」と、自分に質問したと母に伝えるから、やはり問題がある先生だと確信していきます。

 どんどんきつい態度になる母を見て過干渉かもしれない疑問も生まれますね。そしてここから湊も疑います。先生から湊がヨリをイジメしていると言われますから。

 だれが怪物なのかははっきりしなくて#1は終わります。

#2

 今回は容疑者だった先生の視点で状況を見せていきます。

 先生の噂の真相はただ先生の恋人が派手な女だけでした。また、先生が傷つけたこともわざとではなかった。 一連の事情から、湊が怪物である可能性どんどん上がります。

 その一方で失われた家族の写真がよく見えるように置いていることから、校長先生の噂が深まっていきます。

 この事件を早く終わらせようとしている学校

 又は私的制裁している日本社会が怪物かもしれない…と考えるかもしれません。

(C)2023「怪物」製作委員会

 余談ですが一連の流れはとても厳しくて、現場で働いている方は観ることがきついかもしれませんね。

 

 #2の最後に先生はなにを気づいて湊を探したのか。

 湊の真実はなんだろかが現れると期待して#3に入ります。

#3

 今回は湊の視点から見せているから、湊をどう弁護するのか期待しました。

 実は湊とヨリが友達だったのを分かって、各関係者の「事情」を考え、はがゆい状況だったと思うかもしれません。

 ここで終わったら「こんな残酷な状態になられた、私たち(社会の成員)が問題だ」という、つまらない日本映画になったと思います。自分の考えなんですが特に日本のドラマとアニメでこのメッセージを含めているのが多いと思います。これについては後で議会があったら。

 しかし、映画の内容は最後の最後で急に変わっていきます。ヨリの告白からです。

 ヨリは女性的だと言われ、いじめられます。おそらくヨリは性自認が女性だと考えている(女性だとは言いません)のが現しました。

 ここから前の湊のセリフ、そして後の湊とヨリの会話から「変な行動」と「変なシルシ」だと思ったのを観客は繰り返します。

 

  • 怪物はだ~れ?⇒湊とヨリの遊び
  • 湊が出たトイレから閉じ込められたヨリを先生が発見⇒学校では仲良くしない方がいいとお互いに約束したから。周辺を確認した時先生を見つけただけ。
  • 湊がずっと消しゴムを拾おうしたこと⇒偶然
  • 湊が猫を殺した⇒猫の死体を埋めただけ。
    実際、木田(報告した女の子)は猫を殺したと言わなかった。
  • 水筒に土がたくさんあったこと⇒いじめられたことではなく、火消しの間に
  • 湊が自分の脳は豚の脳だと言ったこと⇒僕もヨリと同じだと言うこと
  • 湊の争い⇒イジメを止めるため
  • 湊が髪を切ったこと⇒ヨリに対する感情を認めなかったからヨリの手が触ったところを切り取った。
  • 湊が急に走っている車からでたこと⇒「僕はお父さんみたいになれない」と言ったことを母が理解できなくて。女性と結婚して家族を作っていけないの意味

    などなどです。

 結局怪物は誰だったのか。イジメした子供たち?それとも虐待したヨリのお父さん?

そうかもしれませんが二人を苦しめたのは「人」より「言葉」でした。

普通とらしい

 先生の口癖は「男らしく」です。湊の母の口癖は「普通の人生でいい」です。

 確かに男性からよく見られる特徴はあります。男性ホルモンと女性ホルモンは差があるから。社会の多数派に属する家族構成もありますね。

 そう言っても、多さを言葉につながるのは別の問題です。

 例えば、人間の歴史は戦争から始まって、どう勝つのかを研究しながら発展しました。今もロシアとウクライナが戦争しています。

 では人間らしいのは戦争するのでしょうか。

 同意する人も「同意しない人も多くいる」には反対しないと思います。

 つまり、「人間らしい」という言葉は正確にいうと「(私が考える)人間らしいのは」になります。当然なら当然ですが時々これを忘れてしまいますね。私も

定義という暴力

 哲学で定義というのは何か。

 自分の人生の中で学んだこと、経験したことを一つの言葉に集めることである。科学のあれとは異なります。

 今から「男らしく」と「普通の人生でいい」というセリフを変えてみます。

 

 「握手して、男らしく」⇒「先生は君たちが握手して仲直りしてほしい」
 「普通の人生でいい」⇒「私は湊が好きな女性と結婚して幸せになったら」

 

 この言い方をしたら相手は「なぜですか」という質問ができます。

 何が違って、前文には質問できないのかを分からない方のため、前についても質問してみます

 

「握手して、男らしく」―「なぜですか?」―「それが男だから」
「普通の人生でいい」―「男性が好きなのはだめですか?」―「だめだよ普通じゃないよ」

 

 なぜこうになるのかは簡単です。相手の行動・状況・感情などをもう既に一つの単語に入れたからです。

 これについて質問したら「なぜ私はそうする必要がありますか」ではなく「私はあなたの考えが間違えたと思います」になります。

 ですので、質問しにくいです。

 それもお互いに力の差があるから…もっと難しいですね。

すべては「ただそこにあっただけ」

 定義するのは別に悪いことではありません。

 ていうか、当然なことです。

 脳は自分の経験から理解できないのが残るとすごく不便を感じるから。

 定義した言葉はもう既に自分の考えが含まれていますが

 私たちは(もちろん私も)言葉自体が自分の主観であることを忘れて、言っちゃいますね。

 「友達だから」

 「親だから」

 「恋人だから」…

 

 セリフでの「ビッククランチ」は宇宙が崩壊してゼロに戻すという意味です。

https://pixabay.com/ja/illustrations/%E6%A6%82%E8%A6%81-%E3%83%90%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%82%A6%E3%83%B3%E3%83%89-5292531/

 宇宙の誕生についてある人は「神様が作った」と、科学は「最初に美しい花火があった」と主張します。正解は分かりませんがただ一つ言えるのは人間が生まれる前から、宇宙はただそこにあっただけです。

 このように我々が経験する物・状況・感情・考えなどは理由もなく、ただそこにあっただけかもしれません。(もちろんそれを説明するのが科学の仕事ですので)

 

 湊とヨリの関係が恋なのか

 湊はゲイなのかは分かりません。

 でも二人は遊んで、抱きしめて、最後は家から一緒に逃げました。

 それは事実。これに理由を考えたのは母とヨリのお父さん、先生です。

 子供たちと大人違いが表れたセリフが「豚の脳」です。

 お前がそんな行動をするのは精神を豚が支配するからだと。ヨリの父は行動・感情の理由をつくりました。

 

 今回は湊のセリフを覚えてみます。

 「豚の脳を移植した人間は人間か豚か」

 ヨリのお父さんは, 豚の精神を持っているからそうするんだと言います。女子的だと言われるヨリの行動に理由を探しています。

 ヨリは父から離れたので、自分を人間だと考えています。行為の理由を精神から探していません。

 

 だったらヨリと湊は「豚の脳を移植した人間は人間か豚か」について人間だと言って、ヨリのお父さん・湊のお母さん・保利先生は豚といいますね。

 では豚は誰かな

 

 

 この映画が話したいのはよく使っている言葉にも棘があること。

 これに加えて私は

 

 相手の感情・行為・言葉をそのままで受け入れられる世界が欲しいんじゃないか

 監督の考えを推測してみます。

以上

 

*ネタバレなし 「オッペンハイマー」上映記念で

 こんにちは又はこんばんは。トラコです。

 「オッペンハイマー」が遂に上映決定したと聞きました。

 主人公が主人公なので、日本で物議を醸したと聞きました。実在の人物に対してあれこれをやりたいわけではありません。

 ただ、映画を中心とした感想をはじめ、物議について簡単な考えを述べたいと思います。.

感想

特徴

 ノーランは世界の映画人に愛されている監督ですね。 自分の理想をそのまま実現するのが出来てから、ハリウッドで最もパワーのある監督とも言われています。
この映画もIMAXカメラの物理的限界に達するほどの量を撮影したそうです。
 今回も普通の映画ではありませんね。

 

 パッと見られるはやはり上映時間ですね。 どんどん上映時間が長くなるのがトレンドですが、180分は確かに長いです。

 ですので、自分の好みに合わないと永遠の時間になります。

 

 オッペンハイマーは「インセプション」、「ダークナイト」、「インターステラ」スタイルの映画ではありません。「ダンケルク」と似ていると思います。

 だから、「インセプション」と「インターステラ-」でノーランのファンになったけど、今回の「オッペンハイマー」に失望した人が結構いました。

 この映画は戦争・原爆の話というよりも、「オッペンハイマー」という人物の話です。 だから今までのノーランの映画からのアクションとか、ダイナミックなカメラを期待している方は、もう一度考えた方がいいと思います。

 実に静的な映画です

良かった点 

 伝記映画の課題は、観客のターゲットを誰にするのかということです。 その人物を知っていない人を中心にすると、知っている人には全部予想できてつまらない映画になってしまいます。

 逆によく知っている人を観客にすると、難しすぎる可能性があります。

 ノーランはこれを「メメント」で解決しました。この映画は時間帯を分けて展開しています。過去、現在、未来がミックスされているので、観客は関係者・事件の真相を推測する楽しみがあります。

 その中でも考証のレベルは非常に高いので、オッペンハイマーをよく知っている人でも楽しく観ることができます。

 

 私は実際のオッペンハイマーを勉強せずに見ることをお勧めします。知らないまま、映画の主人公であるオッペンハイマーの物語を見ようと思った方がいいと思います。

 

 他にもこの映画の良いところはたくさんありますが、今回はネタバレがないのでここで終わります。

物議について

 Filmmarksを見ても、この映画に不快感を感じる人がいました。正しい反応も間違った感情もないので、この映画の論争について詳しく語るつもりはありません。

 

 しかし、これだけは言いたいです。

 この映画はオッペンハイマーを美化する映画ではありません。

 むしろ伝記映画なのに、オッペンハイマーの欠点がたくさん出てきます。

 この映画は、ある問題について「〜した方がいい」とか「〜しない方がいい」と決めてくれる映画ではありません。 ただ見せるだけです。

 判断は私たちの仕事になります。

 

 オッペンハイマーは正義かどうかにこの映画は何も答えていません。

 

 本当は「正義」という言葉がこの映画と合わないと思いますがこの話は映画が上映されたら。

映画館で観たい方へ

 母国ではこの映画はIMAXで上映されましたが、IMAXは必要ないと思います。

それよりも音の良い映画館をお勧めします!


 オッペンハイマーの行動はまさに矛盾です。 その矛盾をお楽しみください。


 入場前にトイレは必須です。私は2回観ましたが、途中でトイレに行く観客が結構いましたよ!

 

 最初にも言いましたが、一連の歴史を勉強せずに見るのがいいですね。

 

 では、上映が始まったら、ネタバレありのレビューに戻ります!

以上

さよなら絵梨解説~分析~

 初めまして。

 藤本タツキの短編が私は好きです。

 その中でも「さよなら絵梨」は私に格別であります。

 今回はさよなら絵梨の構造を分析する「分析」、そして意味を考えてみる「解釈」に分けてお話しします。

*漫画を読んだという前提として書かれています。 

 

 結論から話すと、さよなら絵梨は劇中劇で、(映画を作る)映画を編集する映画です。絵で見るとこんな形になります。 

 まず、プロットがこうになる根拠を見てみましょう。 便宜上、母を撮った映画を母の映画と、絵梨を撮った映画を絵梨映画と、本全体をさよなら絵梨と言います。 

 

1.母の映画~コマの形~

 漫画は主人公がもらったスマホで撮っている場面で始まります。同じサイズの横4コマで構成されているページが繰り返して展開しています。

 読者は読みながらカメラの場面を通して主人公の視点を見せる、漫画の演出の一つだと思います。

 しかし病院の爆発後、スクリーンと一緒に映画を見る学生の姿を現すと、前のコマたちが主人公の視線を見せる映画的演出じゃなくて、まさに映画の一つであったのが分かります。

 だったら横コマたちは映画の一つであり、主人公の視線じゃなくてカメラの視線になると考えられます。 

横コマはカメラの視線を見せている

2.絵梨映画の始まり 

 母の映画上映が終わっても横コマは続くので、カメラ撮影も続いてると考えられます。先生が主人公に「ナニ撮ってんだ!」*1と怒るところでも分かります。

 主人公は日常のすべてを記録するみたいですね。

 絵梨映画母の映画と同じ構成です。4つの横コマが続いてから、主人公の生活が記録されている映像が続くと読者は思います。

 死のうと思った瞬間、絵梨と出会った。心が折れた主人公が絵梨と一緒にリベンジする映画をつくて行く、まるで映画みたいな日常が続いていく映像だと感じます。

 それで母の映画と同じように見開きページを通して*2、前のコマたちが絵梨の映画だったのが現します。 

 ここで絵梨と出会った瞬間から映画の終わりまでタイムラインでまとめで見ましょう。

 自殺の決意を固めた主人公⇒病院の屋上で絵梨と出会い⇒映画を作ろうと思う(雄太が吸血鬼絵梨の死を撮る)⇒海に行った絵梨が倒れる⇒俳優の絵梨は自分が本当に死ぬという⇒母親の最後を見る⇒絵梨の映画を再編集し、絵梨の楽しい姿を撮り、最後を撮る⇒スクリーンを通じて映画だったのが現す。

 ところが絵梨の友達と会えてから私たちが見ていた絵梨は誰なのか分からなくなっています。映画の絵梨が実際と違ったということです。性格は言い訳の余地がありますけど、問題は外見ですね。

 絵梨はメガネをかけて、矯正をしていた言われますが、こんな絵梨を私たちは見たことがありません。

 主人公は絵梨の希望に従って撮影したと言います。まるで、そんな絵梨を見たことがあるように。

 すなわち、最初から(絵梨との出会い)映画が始まったのは母の映画と同じであるが、母の映画と違って、日常が記録されている映像が使われたわけではなく、映画のために絵梨との出会いを演出して撮影したことになります。

 だって、メガネをかけてない絵梨が自己紹介しているでしょう?初めて見たように自己紹介しているけど、メガネをかけてない時点で初めじゃないです。

 屋上のシーンですでに映画が始まっていたと言ったら、その後の場面も映画の一部だと考えるのが効率的ですね。時間順に基づいて整理すると次のようになります。  

 メガネをかけた絵梨と会って映画を作ると思う⇒絵梨を美しく撮るために初めて出会ったところからもう一度撮る(映画の始まり)⇒俳優絵梨の病気に気づいたから、吸血鬼の死を撮る映画を作りたかった人間エリの死を撮る映画ではなく、吸血鬼の死を撮る映画を作りたかった吸血鬼エリの死を撮る映画になるように再編集する。

 つまり、死を演じて作ろうと思ったが本当に死ぬことになって本当の死を撮ることになったといいます。

 しかし、主人公は日常を記録しているから、元の映画を作る日常の映像を編集して映画にしたんじゃないかと考えるかもしれません。メガネをかけてない絵梨が全部演出ではない可能性もあるのではないかと。

 ここで私は、絵梨と主人公が映画を作る過程は日常ではなくて意図的に演出した結果であるとはっきり言います。

 絵梨映画が映画を作る映画である根拠と絵梨映画の中のエリが吸血鬼である根拠は次です。

a. 父の演技

 カットサインから父が怒るのが演技だったのを分かります。

 カットサイン以前のシーンは元の映画で使われる予定だったシーンですね。父が怒るシーンが必要だった理由について考えましょう。

 絵梨のカットサインの後、絵梨はセリフではなく実際はどう思うかと聞きます。

 父は映画を撮ることを許可した理由について話します。その時、父は「今のセリフいいでしょう?もう一回撮っておく?」*3と言います。もちろん、もう一度撮ったのは使われていません。

 ここで私たちは2つを確認できます。絵梨が初めて登場したシーンから映画だったのを話すためにちょっと複雑になりましたので、もし「読めにくいと!」思う方は2番目だけを覚えてもいいと思います。

 1つ目は計画が変わる前のエリ映画も映画を作る映画だったと推測できます。

 まず、雄太が絵梨にシナリオを説明するシーンが映画を作っていく日常だったら父の演技は絵梨の死を撮られるのか撮らせないのかになるはずです。 

 しかし、雄太が「台本書く前に僕の父親に会ってくれない?」と話したことに合わせて撮影されたこのシーンは、絵梨の死を撮らせるのかがトッピングではなく、映画を作らせるのかが課題になっています。

 それに加えて、映画を作らせるのが元のショットと反対なのにいいセリフだからもう一同撮影しようとしています。セリフがいいのは死を撮らせる理由を見せているからではなくて映画を撮らせる理由を見せているからです。

 まとめると、元の映画で必要だったのは雄太が説明したシナリオ中でいるエリの死を撮らせるのかではなくて、映画を撮らせるのかでした。それは、雄太が絵梨に脚本を説明するシーンも元の映画の作業過程が記録された映像ではなくて、元の映画の一部であることになります。

 

 2つ目は編集が行われたことです。

 「いいセリフ」は撮られたけど使われなかったです。

 元の映画で必要な部分は父が怒る部分までだったが実際に使われシーンは違いますね。

 すなわち、ここは雄太の作為によって編集した映像なので、絵梨が本当に死ぬのを聞く前のシーンも絵梨映画であるのを意味します。

b. 主人公が思ったファンタジー 

 雄太の映画といえば爆発だと父は言います。そして、爆発を、子供の頃から入れた1つまみのファンタジーと同一視しています。  

 しかし、私たちが普通に使うファンタジーとは少し違いますね。父が言ったエピソードから出るドラゴンはファンタジーと呼べますが、母の映画での爆発シーンをファンタジーと呼ぶには無理があります。  

 つまり、この作品で使用している「ファンタジー」はジャンル的区分のファンタジーではなく事実でないことを意味します。   

 この映画は観客を泣かせるために作った映画であり、観客を泣かせる核心は絵梨の死です。もちろん映画の中でエリの死が本物のように見えてこそ観客は泣きますね。

 雄太が絵梨にシナリオを説明した通り、映画が進むと絵梨の死が演技であることを分かり、何より泣かせるために死を演技したことを分かるので、説明した通りに流れてはいけません。 したがって、映画の中で雄太が話した吸血鬼エリの死と元の映画で死ぬ絵梨は違います。

 「a.父の演技」と合わせて、もともと作ろうとしていた映画は吸血鬼エリの死を撮る映画を作りたかった絵梨の死を撮る映画だったと推測できるのです。  

 主人公のファンタジーはいつも一つまみです。もっと入ってはいけません。そのため、もともと雄太が作ろうとしていた映画のファンタジーは、人間絵梨の死であることがわかります。 
 しかし、絵梨は本当に死ぬことになりました。 絵梨の死はもうファンタジーではなくなりました。

 したがって完成された映画に一つまみのファンタジーが入るため、プロットは「吸血鬼エリが自分の死を演じて映画を作ろうと思ったが死ぬことになり、本当に自分の死を撮る」と言えます。  

 もちろん観客・読者は皆、人間絵梨が死んだと思うかもしれないけどね。 

3.全体が映画~編集の原理~

 ボッチ・ザ・ロックのミニアルバムが出ました。最初はメインの「光の中へ」より「青い春と西の空」が好みでしたが今は「光の中へ」をよく聴きますね。 

 今何の話をやっているだろうと思いませんでしたか?

 そうですね。私たちは内容に関係ない話を聞くとすごい不便を感じます。これは映画・諸説・漫画全部一緒です。 

 基本的に自分の作品を台無しにしようとする作家はいません。したがって、私たちは作品の中にあるすべてのものは必要によって存在し、必要でないものは切り取ったと思いながら作品を見る必要があります。映画はこの考えによって編集しています。 

 結論から話すと本全体が映画だという明確な根拠があるとは言えません。しかしそういうのが編集の原理にあっているから私は本全体が映画だというのです。

 この本は構造の反復と違いが重なっています。母の映画絵梨映画は、同じように初めから映画のシーンでした。しかし、母の映画は日常を記録したも映像だが、絵梨映画は映画のために撮影したものでした。

 このように絵梨との再会も、いままでの話しの構造を繰り返していて、同時に演出の違いが表れています。そして反復と差異の理由を説明できるのが劇中劇構造ということ、全体が一つの映画であることです。 

a. 反復

 母の映画を考えてみましょう。日常だと思ったシーンが横コマで展開されました。そして、見開きページを通じて前のシーンが映画の一部だったのが現しました。

 絵梨映画もそうでした。

 それでは最後の爆破シーンを見てください。 最後の見開きページの爆破シーンで終わります。そう見ると、この本全体がスクリーンで、観客は読者だと考えるのが別に変なのはないでしょう?

 編集の原理に従って、私たちは爆破シーンが最後に登場した理由を見つける必要があります。

 映画にファンタジーを一つまみ入れるのが主人公のシグネチャーです。母の映画では爆破シーンが、絵梨映画では吸血鬼がファンタジーとして入っていました。

 それを考えると、最後の爆破シーンが挿入された理由は一つまみのファンタジーが必要だったからだと考えるるのが合理的です。 爆破シーンが偽物だと思うのが説明できるので、私は偽物だと思いました。

 そして爆破シーンが現実ではないなら、つまりファンタジーだと言ったらファンタジーが入る場所は映画です。 

 プロットも繰り返しています。周りの人の死に絶望した主人公は自己嫌悪の末に死に行く、 その瞬間を映像に残しながら自殺する瞬間、絵梨に会って救われるプロットです。大人の雄太の話も似ています。

 絵梨映画が終わってから黒い場面が続き、主人公のナレーションと一緒に、新しい話が始めます。学生の時と同じようにカメラを見ながら自殺を決心しています。

 したがって、大人になった主人公が自殺を決心して残した映像もやはり映画の一部だったと推測できます。 

 ちなみにここで、学生時代の主人公が自殺を決心して残した映像のセリフ、「メメントモリ」*4絵梨映画の始まりだったことが分かります。

b. 演出の違い

 絵梨との再会シーンは、数多くの映画的文法を守っています。

 最後の場面が映画ではないと思う方は演出の違いから発生する異質感を捉えたのです。

 それは母の映画と絵梨映画で使われた主人公の編集規則が適用されなかったために来る異質感です。

 少し簡単に話してみましょうか? 藤本タツキのシグネチャといえば、動きの少ないコマを繰り返すことです。

alu.jp

 そして今回のさよなら絵梨では、これを活用してスクリーンの一部であることを示しました。

 たとえば、絵梨と主人公が映画を見ながら会話をするときを考えてみてください。*5

 同じ角度から二人の人物が大きな変化なしに話しませんか?まるで再生されている映像のフレームみたいです。

 ところが絵梨と再会した時の対話では、話者を見せる演出法を選びます。 主人公が話す時は主人公を、エリが話す時はエリを見せてくれますね。

 最後の話が漫画だと思う理由はここにあります。 映画であることを表現するために絵梨映画までの話をわざと4つの横コマで構成したから、この会話シーンは映画ではないことを表現していると思うようになるのです。

 しかし、逆説的だけど、映画ではないようなこの場面は映画であることを示す根拠にもなります。 なぜなら、このように単独ショットを通じて対話しているお互いの視線を一致する撮影と編集は映画の基本なんです。 

alu.jp

全体を見せた後、話し手を見せるのは基本である。

 単純に漫画でもよく使う演出の一つだから、今回はお互いが向かい合って話しているからだと考えられますね。

 しかし、カメラで撮っていると考えば、簡単なことではありません。

 この構図は、絵梨映画での話を撮影した構図であります。カメラはどこにありますか?彼らの正面に置いたまま動きませんでした。 

 では、カメラを右に移動してエリを見せて、カメラを左に移動して主人公を見せるとしましょう。

このようにカメラが移動する

 どうですか?雰囲気がはっきり違いますよね?

 皆さんが動画、漫画、アニメで普通に見るのはどちらでしょうか?

 絵梨映画のように会話する二人を見せてくれただけですか? それとも、話し手を見せましたか?

 おそらく後者でしょう。 

 学生の雄太がこの撮影方法を知らなかったからこのように撮らなかったとは思いません。知らなかったから撮らなかったではなく撮れなかった言えます。

 この方法はカメラの移動が必修だからです。

 

 再会する直前まで主人公がスマホ持ち上げて死に行く過程を撮っていました。

 そして、絵梨映画の中で雄太がカメラを片付ける場面が表れ、カメラが切り替わるのです。

 実際に主人公のスマホが落ちるシーンから推測できます。 

 このように後半の演出が前半と違うのは後半が映画だという根拠にもなります。

 そもそもこの作品自体がどこから実際で、どこから映画なのかが曖昧なので、驚くほどではないですね。 

 

 主人公が建物を歩いて出てくる場面もかなり違います。 母の映画の最後に病院から出てきた主人公は正面のカメラに走っていきます。

 しかし、エンディングでは違います。 主人公の足を見せ、主人公の表情と視線を見せます。 ここで満足そうな表情の主人公が爆破すると予想した方はいないでしょう。

 

 生まれ変わった絵梨と会った後の場面が映画だという確実な根拠がないのは事実です。

 しかし映画だと感じられる要素が多く、映画だと思うといくつかのシーンを説明できます。  

 そして絵梨と会ってからのシーンが映画なら、この本全体が映画ということになります。 

 c. 全体に重ねている編集の要素  

 横コマはスクリーンであることを教えると言いました。

 しかし、横ではないコマがたまにあります。論理的に縦コマを検討してみます。

 母の映画は、すべてのコマがスクリーンの一つだったことについては異存はないと思います。

 そうすると爆破シーンが縦コマからといって、このコマがスクリーンの一部ではないと言うには無理がありますね。

 もっと直接見られるのは、父がとったお母さんの最後を主人公に見せたところです。 この時、ひどいことを言う母の映像は縦コマです。

 今回は縦コマの機能を考えてみましょう。 縦コマが出た時どんな感じでしたか? いろいろな話しがあるかもしれませんが、一般的にはそのシーンを強調する感じだったという答えが出ると思います。

 撮影したシーンの構造を変わらないままで観客がうまく受け入れられるようにシーンを配置して操作するのが映画の編集ではないですか?

 その他にも様々な編集の痕跡を探せます。絵梨映画が終わっても、主人公はずっとカメラで撮影しています。 そうすると絵梨の友達の感謝を受けて、母の姿がインサートされます*6

 何か気づいたのを表すように。カメラの視線を見せる途中で特定のシーンをインサートしたというのは、絵梨映画が終わったからのシーンも特定の映画の一部だたと考えられます。  

 

 絵梨映画が終わり、黒い画面が続きます。黒い画面はなくてもいいんです。

 むしろ普通の漫画だったら、「数年後」という言葉とともに大人のユタが登場したかもしれません。

 それでも黒い画面と同時に主人公の独白で大人の雄太の話が始まるということは、黒い画面が単に時間の流れを示すためではないことを意味します。

 この漫画は雄太の視点で展開され、雄太が主人公です。

 それでも雄太が家族と過ごした幸せな瞬間は見つかりません。雄太に絶望をもたらした車の事故も、言葉だけで言及されて、読者には見えてないです。

 この二つの話は雄太にとっては重要ですが、この漫画では重要ではないから読者に見せない、 すなわち、人物に重要なシーンではなく物語の重要なシーンだけを集めて見せています。

 これが編集ですね。

 要すると黒い画面の連続は時間の流れを示していますが、その時間が作品のテーマには無意味であることを示しています。

 

 軽く扱われますが、とても重要なシーンが一つあります。

 主人公は絵梨映画が終わった後、猫を撮ります。

https://pixabay.com/ja/photos/%E7%8C%AB-%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%B3%E3%82%B9-%E6%9C%A8%E8%A3%BD-5606651/

 母の映画を作る時、主人公は猫を撮りましたが映画には入れなかったです。しかし、絵梨映画が終わってから猫を撮るシーンが登場します。

 猫のシーンは漫画全体としてなくてもいいシーンです。でもなぜか入っています。まるで映画で特定のシーンがインサートされたように。

 母の映画を編集した主人公は猫を入れませんでした。 そして絵梨映画が終わった後は猫が入ります。

 シナリオの流れとは関係なく、ただ雄太に意味がある行為を作品に入れたということは、絵梨映画を編集していた主人公が、映画後のシーンについても編集をしたと言えます。

 猫の挿入は作品の意味的にも重要で、これについては解釈編で取り上げます。

 

 なので、私はこの本全体が一つの映画だと言いましたが、もう少し厳密に言えば、主人公が「さよなら絵梨」という物語の編集権を持ったと言うのが妥当です。 

 つまり、母の映画絵梨映画の編集権を持っている大人の雄太が、母の映画と絵梨の映画の映像を使って、喪失の痛みを乗り越える過程を一つの作品にしたと言えます

 

以上、「さよなら絵梨」のプロットを分析しました。解説編ではさよなら絵梨の様々な要素について考察してみます。

*1:p.27

*2:p.152-153

*3:p.101

*4:p.35、p.177

*5:p.48-52

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